エコノメソッドでプロサッカー選手を育てるまでのブログ
ちょっといい学校話

だれにでも1年目がある

私が新採者の頃の話です。

今から25年前のことです。

私は三重県の北の端の町の小学校に赴任しました。

静岡の大学を卒業し,4年ぶりに地元に戻って来たと思ったら,またすぐに引越しでした。

私が一人暮らしをした場所はなぜか愛知県でした。

つまり三重県に住むより愛知県に住んだ方が通勤に適していたわけですね。

私は三重県民から静岡県民になりほんの少しだけ三重県民に戻り愛知県民になったのでした。

三重県は南北に長い県です。

三重県はいくつの県と接しているかご存知ですか?

正解は6つです。

愛知県,岐阜県,滋賀県,京都府,奈良県,和歌山県です。

多くの県と接する三重県の東には伊勢湾が広がっているので,交通の要所でもあり,あらゆる産業が盛んな地域です。

伊勢神宮,熊野古道,伊勢エビ,松阪牛,鈴鹿サーキット,長島スパーランド,鳥羽水族館,伊賀忍者,等々全国的にも有名なものがたくさんあります。

そんな三重県の教職員として社会人生活をスタートしました。

私は小学校4年生の担任になりました。

この1年間は私にとっては「辛い」の一言で言い表せるほど苦しい1年間でした。

決して子どもが嫌いと言うわけではありませんが,日々の授業をこなしていくだけでも大変すぎるのに,公立小ならではの多様な生活背景を持った子どもたちの生活指導には,自分の教師としての力量の未熟さを突き付けられました。

思い通りにコントロールしようとすればするほど,子どもたちは私の思いとは違う行動をします。

若さでぶつかっていってもダメ。

おだててもダメ。

でも授業を待ってくれない。

提出文書の締め切りは待ってくれない。

次々と行事はやってくる。

保護者から電話はかかってくる。

時間は無情にも過ぎていき,毎日21時過ぎまで学校に残っていました。

どんなに大学で勉強したとしても,教育実習で経験を積んだとしても,リアルに勝るものはありません。

大卒1年目で保護者の大切な子どもを30人預かり,教育基本法に基づいて教育し,学校が目指す子ども像に育てていくわけです。

そのプレッシャーは計り知れません。

だから私は何度も先輩の先生に叱られました。

明らかに私が悪いのですが,私は先生に叱られたと言うことに落ち込み,子どものせいにしてしまいました。

そんな私を見かねて,年齢が近い先輩の先生が「行こか?」と言って何度か飲み屋に誘ってくれました。

屋台のようなところでした。

一緒に新採で赴任した同士の子も一緒にたくさんの話を聞いてもらいました。

「わかるわかる。」

その言葉にどんなに救われたか。

まるで先生のドラマのワンシーンのようですが本当に助かりました。

そうやって恐ろしく長く感じた1年間を終えたのでした。

実はこの時に担任した学年が私の教師人生の中で1番つながりが深くなり,わざわざ私の実家にまで遊びに来てくれて,成長した姿を見せてくれるのでした。

私はお世辞にも立派な教師ではなかったです。

保護者の皆様にも申し訳なかったと心から思います。

私には謎ですが,それでも何かが彼らの心に残ったのでしょうね。

この経験があるからなのか,私は後輩の先生や担当した教育実習生には,

「若いと言うだけで許されることがあるから,うまく立ち回るよりも思いっきり子どもにぶつかっていき,共に喜んだり悩んだりしたらいい。これから出会う子どもたちのために教師としての感性を磨くことの方がよっぽど大事だ。責任をとるのは先輩の仕事だ。」

と飲みに行って偉そうに言うのでした。

ろくに責任もとれないくせに。

25年の時間は流れ,現在は先生も「即戦力」が求められるようになりました。

若い先生を育てる余裕はもはやありません。

もし私が今の学校に新採で勤めたら本当に辞めていたと思います。

それぐらい教育界を取り巻く環境は変化しました。

本当に辞めてしまった私が言うと説得力が無いのですが,現場で働く先生方はよく頑張っています。

子どもが未熟なら先生も未熟なんです。

共に育っていくからこそ,そこに家族のような優しさが生まれるのだと思います。

夏休みが終わるこの季節,ふと屋台に誘ってくれた先輩の笑顔を思い出しました。

あの先輩もまだ20代だったと思います。

当時の私にはとんでもなく年上に見えました。