エコノメソッドでプロサッカー選手を育てるまでのブログ
ちょっといい学校話

My教育実習物語

私は教職を離れました。

そもそも教職が天職だったのかは自分ではわかりません。

同僚の先生方のように憧れの先生を目標に教職に就いたわけではなく,教育学部の流れに流されて採用試験を受けて合格しただけです。

「先生になることが夢」

そう胸を張って言える若者に申し訳ないです。

でも仕事はやる気があろうがなかろうが夢があろうがなかろうがお構いなしに進んでいきます。

毎日の授業,生活指導,保護者対応,学級事務,学校事務,研修,その他・・・。

初任の初日から怒涛のような日々を過ごすことになり,私は少しずつ学校の先生という仕事を理解していきました。

あれから25年。

私は主夫になりました。

毎日パソコンの前に座って過去を振り返っています。

「流れに流されるにしても,どうして先生になる道へと歩んだんだろう?」

ふとそんなことを思いました。

そこで今回は私が教育実習をしたときの経験を綴ります。

静岡大学3回生

私は静岡大学教育学部小学校社会科の学生でした。

3回生の時に1週間の教育実習を浜松市の付属小学校で行いました。

確か浜松で実習になった仲間数名と1週間だけ寄宿舎のようなところを借りて生活をしていたような記憶があります。

私は2年生に配属されました。

数名の仲間が同じクラスで教育実習を行いましたが,誰もが初の経験に戸惑い苦しみ悩み必死で過ごした1週間になりました。

大学の授業で学んでいたとはいえ本物の指導案を書くのは初めてですし,指導教官や実習生,クラスの子ども達の前で研究授業をするという経験は想像以上にインパクトがあり,足が震えるような時間でした。

生活科の授業でドングリゴマを作ったと思います。

後で授業の様子の写真を見せてもらいましたが,2年生の子ども達は楽しく活動をしてくれていました。

でも私は頭の中が真っ白でしたので全く覚えていません。

1週間の実習が終った時の解放感は半端なく,静岡市のアパートに帰ることができる幸せをかみしめていました。

とにもかくにも子どもの前で先生として授業をした25年の始まりの1週間でした。

静岡大学4回生

4回生になると3週間の実習が必須です。

私は中学校の免許も取得しようとしていましたのでさらに2週間の実習が追加されます。

合わせて5週間の実習ということになります。

私は浜松市の北部の協力校で実習をすることになりました。

前回のように仲間と寄宿舎には泊まれません。

そこで私は浜松が実家の友だちを頼りました。

今になって思うと大学もひどいもので,教育実習中の生活費は自分で用意する前提です。

静岡市の付属小学校や協力校なら普段と変わらない生活費で済むのに,浜松市に配属されたらダブルで生活費を払わなければいけません。

親には感謝しかありません。

協力小学校での3週間

私は友だちのご両親の好意に甘えて3週間下宿させていただきました。

当然,友だちも3週間の実習があります。

友だちは実家で多少はリラックスができるのですが,私は友だちの実家に下宿させてもらっているという状況でしたので,それなりにストレスを感じていました。

友だちのご両親と弟さんはとても気さくな方で,私を快く受け入れてくれましたし,私も少しずつ生活に慣れていきました。

私は協力校まで自転車で20分ほどかけて通っていました。

友だちは別の中学校だったので帰宅する時間が違いました。

だから朝食は一緒に食べるのですが,夕食は別々になることがほとんどでした。

友だちのお家ではご飯をどんぶりで食べていました。

私はどんぶりで食べていませんでした。

残したら申し訳ないと思っていたので,毎食必死で食べていました。

友だちのお母さんもそんな私に「これも食べな。あれも食べな。」とたくさん出してくれるのでした。

3週間の実習が終ることにはダイニングで友だちのお母さんと二人で談笑するまでになるわけですから人間は適応する生き物ですね。

協力校での実習では,付属校とは違う雰囲気で3週間を過ごしました。

休み時間を一緒に外で遊んだり,指導教官が出張で1日学級を任されたりしました。

研究授業は体育で「器械運動」の授業をしました。

お手本で見せた「倒立前転」に子どもたちから拍手をもらったことを覚えています。

振り返ってみると可愛らしいものですが私はそれだけで嬉しかったのです。

教育実習の打ち上げも浜松市の繁華街で盛大に開いていただき,たくさんの先生方に見送っていただきました。

たくさん飲みました。

どうやって友だちの家に戻ったのかは覚えていません。

協力中学校での2週間

私は友だちの家から他の仲間が寄宿している浜松市中心のアパートに移動しました。

アパートはすでに3週間を終えていた仲間達の苦労がにじみ出ている様相で,合宿所のような雰囲気でした。

「なあ,屋久島の杉の気持ちって何?」

「杉になったことが無いからわからんわ。」

ぶつぶつと言いながら教科書をにらみ,指導案を作っている仲間の姿を観て,

「こいつも病んでるな…。」

と思いました。

みんな明日の授業に向けて追い込まれていて,睡眠時間もほとんどとれていませんでした。

顔はやつれていますが目はギラギラとしていて必死そのものです。

でもこの苦労は悪魔の実のようなものです。

教職の素晴らしさを錯覚させるには十分な達成感を持たせるのでした。

私は仲間とともに雑魚寝をし,早朝にはバスを乗り継ぎ,協力中学校に通う日々が始まりました。

今でも朝焼けの浜松駅で友だちとバスを待っている光景を覚えています。

2人とも戦友みたいな気分でそれぞれの学校行きのバスに乗っていきました。

言い過ぎですがトップガンみたいな感じです。

私は中学校1年生に配属されました。

指導教官の先生は見るからに体育の先生のような風貌でした。

「こわい・・・」

それが第一印象です。

放課後は部活の指導で時間が取れないので,一緒に実習に参加している他の大学の仲間も一緒に指導案作りをしていました。

私は教頭先生によく叱られていました。

自覚は無いのですが態度が良くなかったのだと思います。

ことあるたびに小言を言われました。

あるとき教頭先生は私に社会科の授業を見せてくれました。

その授業はこれまで見てきた中学校の授業とは違い,導入で子どもたちの関心や意欲を引き出し,子どもたちの知的好奇心を学習内容に向けていくという実践方法でした。

人生にはベースとなる経験があるものです。

この教頭先生の手法は25年間の私のベースとなったのでした。

私の研究授業はひどいものでした。

校長先生にも歩き方から叱られました。

そして実習の最終日,運悪くあいさつをすることになりました。

私は「最後の印鑑を押したときに,これでやっと解放されて静岡に帰れると思いました。ありがとうございました。」と素直に話しました。

その日の打ち上げの時,教頭先生に声をかけられました。

「君は最初はひどかった。でも一番,頑張った。お疲れさま。」

と言ってくれました。

その言葉を聞いた後の私は,いつもより酔っぱらってしまいました。

そして・・・

私は教職員になり,逆に教育実習生を受け入れる立場になりました。

私なんかに指導される学生はかわいそうです。

でも私は実習生にはいつも伝えていました。

「この先あなたが先生になるかどうかは分からないけど,子どもの前に立っているときは子どもからしたらあなたは先生です。だから子どものために一生懸命やりましょう。」

教育実習を経て先生になった子もいればそうでない子もいます。

でも実習最終日にドッキリで「お別れ会」を開くと実習生はみんな感極まっていました。

そりゃそうですよね。

間違いなく先生になった初めての日なんですから。