エコノメソッドでプロサッカー選手を育てるまでのブログ
ちょっといい学校話

君の花になる

道徳の価値

最近は息子たちとTVerでドラマを観ることにハマっています。

まんまと制作側の狙いにハマっているのですがそれで全然オッケーです。

私が狙っているのが家庭で「道徳」の授業を行うことにあるからです。

私は20代のころから道徳の授業には多少のこだわりを持っていました。

それはなぜかと言うと「道徳」の授業には人が人として生きていく上で必ず必要になる価値感を学ぶことが出来るからです。

世界中に子どもがいます。

当たり前ですがまったく同じ生活背景の子どもはいません。

家庭が違えば育ち方も違います。

そんな子ども達が学校単位で集団生活をするのです。

価値観の相違でトラブルがあって当たり前です。

そのトラブルがなぜ起きたのか,そのトラブルをどのように成長に変えていくのかを「道徳」の時間に客観的な資料から学びます。

それらの積み重ねが社会の中での自立へとつながっていくのです。

だから「道徳」は生き方を学ぶという観点ではものすごく大事なのです。

なぜ道徳を大切に思えないのか?

でも,子ども達は国語や算数と比べて「道徳」を大切にしていないように感じます。

おそらく「正しいこと」を押し付けられる感覚なのでしょうね。

分かります。

例えば「思いやり」を学ぶ内容だとして,「思いやり」の大切さは誰もがそれなりに分かっているのですが,「思いやり」のある行動が実生活の中で出来ないときがあります。

ではなぜ出来ないのでしょうか?

そもそも出来ないとだめなのでしょうか?

道徳の目標は以下の通りです。

 道徳教育の目標は,第1章総則の第1の2に示すところにより,学校の教育活動全体を通じて,道徳的な心情,判断力,実践意欲と態度などの道徳性を養うこととする。
 道徳の時間においては,以上の道徳教育の目標に基づき,各教科,外国語活動,総合的な学習の時間及び特別活動における道徳教育と密接な関連を図りながら,計画的,発展的な指導によってこれを補充,深化,統合し,道徳的価値の自覚及び自己の生き方についての考えを深め,道徳的実践力を育成するものとする。

私が勝手に超簡単に要約すると

「道徳的な心情,判断力,実践意欲と態度などの道徳性を養い,道徳的な価値の自覚や自己の生き方を考え,道徳的実践力を育成する。」

ということです。

もっと簡単に言えば「道徳性を養って実践力を身に付ける」ということです。

私たちは日常生活の中でどんな実践をすれば良いのでしょうか。

私たちの生活の中には「人間的な価値」と「普遍的な価値」があると思います。

簡単に言えば「分かっているけど出来ないよね」が人間的な価値で,「それでもやっぱり出来るべきだ」が普遍的な価値です。

おそらくこの普遍的な価値の押しつけが道徳の授業の中で起きてしまうのだと思うのです。

授業を受けているときに先生と話していて「はい,確かにそうですね。その通りです。(でもそれが出来ないんだよなあ…。モヤモヤするなあ。)」という状態になり,結局授業後のまとめではいわゆる模範解答で終わってしまった経験はありませんか?

でも本当に大切な学びは社会の中での自立なんです。

だとすると心の中で(でも出来ないんだよなあ)と思っていては,道徳的な価値観を学んだとは言えませんよね。

例えば「思いやり」を学ぶ授業なら,提示された資料をもとに「思いやり」の価値に気づき,自分の生き方と重ねながら,これからの生活の中で「思いやり」を実践しようとするところまでといかないといけないのです。

モラルジレンマを活用

私が教師時代はよくモラルジレンマの資料を使っていました。

以下はモラルジレンマの資料の説明です。

子どもたちの道徳性を発達させるためには,子どもたちを道徳的な不均衡状態,価値葛藤の状態に置く,つまり道徳的な正しさが曖味でどちらか決めかねる岐路の問題場面に置く必要があります。そのための道徳資料のことをモラルジレンマ資料と呼びます。それは一般に,オープンエンドの形で投げかけられる道徳的な価値葛藤の物語です。

資料から,どちらもあり得る状態に置かれて自分の決断がジレンマすることで,道徳性の発達つまり普遍的な価値の大切さに気づかせる手法ですね。

例えば

「大切な人の命を救うためにはルールを破る必要がある。あなたならどうしますか?」

これってかなり悩みますよね。

A 大切な人の命の危険があったとしてもルールは守らなければいけない。

B 大切な人の命を救うことができるならルールは破っても良い。

あなたならどちらを選びますか?

どちらも正解ではありません。

この状況には背景があって資料の中の登場人物は「ある事情」でどちらかを選んだと言うだけです。

でも授業を受けているあなたには「ある事情」はありませんから,その人に立場に寄り添って自分なりに最善の選択をするだけなのです。

その人と違う選択をしたから不正解というわけではありません。

つまりオープンエンドということです。

この授業で重要なことは、なぜそれを選んだのかという「理由」の交流です。

「理由」には必ず生活背景が影響しています。

身近に病人がいる人とそうでない人では考え方が違いますし,大切な人がいるかいないかでも変わります。

そして最初はAだと思ったけど授業後にはBになっていることも構いません。

1年後にはAに戻っていることもあります。

子ども達は身近な人と理由の交流をすることで,実際の社会生活は多様な価値観で満ちていることを知るのです。

それを知らないと利己的で偏った判断に陥ってしまいますし多数派が正解のように錯覚します。

子ども達は流行りに弱いですし,多数派に乗っかりやすいところがあります。

でも実は少数派の中にも自分と近い考えの仲間がいたりもするのです。

ケンカするぐらい嫌いな奴と同じ価値観だったりもします。

だからこの交流はすごく大事です。

「仲間づくり」にもつながります

だからと言って普遍的な価値を守らなくても良いと言うことではありません。

社会生活の中では普遍的な価値は絶対です。

社会生活の中ではどんな理由があってもルールは破ってはいけません。

なぜならルールはみんなで決めたものだからです。

それが社会のルールです。

でもルールを破ってでも命を守りたいと思える出来事があるのも事実です。

資料の中の登場人物もそうですし,もしかしたら自分もそのような状況になるかもしれません。

悩んだり迷ったりするのも人です。

そんなときの判断基準こそが普遍的な価値なのです。

完璧な人を育てるのが「道徳」の目的ではありません。

社会の中で自立していける人の育成が目的なのです。

誰の花になるのか

というわけで,今日は長男と「君の花になる」の第3話を観ました。

「アイドルは誰のために存在するのか」

「強制された自立でアイドルとして成功するのか」

「アイドルとしての自分たちらしさってなんだ」

色々と考える機会をもらいました。

長男はサッカー選手として生きていくことを目標に奈良に来ました。

アイドルをサッカー選手に置き換えるだけです。

「サッカー選手は誰のために存在するのか」

「強制された自立でサッカー選手として成功するのか」

「サッカー選手としての自分たちらしさってなんだ」

素晴らしい道徳の資料ですね。

はたして長男はだれの花になるのでしょうか。

長男の道徳的な価値が高まり,普遍的な価値を判断基準にしながら実践を繰り返して,社会の中で自立していけることを願っています。

二男は中学校で道徳の勉強中です。

まだまだ自己中心的です。

でも未熟なんだから当たり前ですね。

人間的な価値を大切にしながら普遍的な価値で判断できるように育っていってほしいと願う親心です。