エコノメソッドでプロサッカー選手を育てるまでのブログ
サッカー愛にあふれたうんちく話

そこに「愛」はあるのか

私の後悔

私はすごく後悔していることがあります。

それはある選手を全日本少年サッカー大会の予選で1秒もプレーさせなかったことです。

彼は練習でドリブルでの突破にこだわり過ぎて何度もボールロストしたり,ボールの循環をよどめたりしていました。

チームの目指すサッカーに合わないプレーをしていると判断した私は,試合前に「もしかしたら今日の試合に出場できない選手がいるかもしれないが,チームで勝利を目指して先に進み,次回には自分が出場できるように準備してほしい。」と全体に伝えて彼を出場させませんでした。

でも彼はチームを辞めてしまいました。

きっと私の起用法や指導に不満があったのだと思います。

私は彼がサッカーをする場所を奪ってしまって申し訳ない気持ちになりました。

私は確かに選手起用の意図を説明しましたし,チームの目指すサッカーを指導してきました。

でも,それだけでは足らなかったということです。

子どもはプレーしたいだけ

育成に正解はありません。

でも間違いはあります。

それは「サッカーをしに来ている子どものプレーする機会を奪ってはいけない」ということです。

私は小学校6年生の彼にとって人生で最後になる全日でのプレーする時間を奪ったのです。

全国の指導者はきっとこの悩みの中で苦しい決断をしてきていると思います。

チームが勝つためには現時点で出場できないレベルの子ども達がいます。

でも彼らもサッカーチームにいる以上プレーがしたいのです。

そのことを指導者は忘れてはいけません。

きっとたくさんの指導者が選手たちに事前と事後のケアを丁寧にしているのだと思います。

私はそれをしているつもりでしたがきっと足らなかったのでしょうね。

指導力不足に原因がある

指導者と選手の間に必要な「愛」がこの時の私には無かったのだと思います。

私が小学校教諭時代に1番苦しい決断をしなければいけない瞬間が,通知表で「がんばろう」を付ける瞬間でした。

「がんばろう」を付けるということは指導者である私の力不足を証明するということです。

子どもに確かな学力をつけてあげられなかったという事実が私を苦しめました。

だからいつも「ごめんなさい」という気持ちで「がんばろう」をつけていました。

サッカーの指導者も同じだと思います。

よく「今日の試合は子ども達の力不足で負けた。」とか「子ども達に戦う気持ちが無かった」とか「今年は去年に比べて人材不足だ。」とか試合後のコメントで指導者から出てくると思いますが,私からしたらそれは指導者が指導力不足を自覚していない証拠だと思うのです。

だってこの試合に向けて指導してきたのは指導者なのですから。

選手は指導者の指導に従ってきただけなのです。

もしコメントするなら「今日の試合は私の指導力不足で負けた。」「子ども達に戦う気持ちを育てられなかった私の責任だ。」「今年の子ども達を去年以上の育てられなかった。」と言うべきです。

そもそもこんなコメントをしてくれる指導者の下でプレーしている子ども達が戦わないはずはないし,確実に育つに決まっています。

だってそこには指導者と選手の間に「愛」があるからです。

そこに「愛」はあるのか

私は教諭時代に私の指導力不足でたくさんの子ども達を勉強嫌いにしてしまったと思います。

当時の私に「愛」のある指導ができていたらと思うと申し訳ないです。

今は彼らがその後の人生を幸せに生きていてくれていることを願うことしかできません。

私は完璧に指導することは不可能だと思っています。

でも子ども達は自分の未来に期待しています。

だからこそ,自分の指導にこだわりつつ,柔軟にアップデートし,相手へ「愛」のある指導を目指していかなければいけませんね。

主役は子どもであって指導者ではありません。

今日はそんなことを考える1日でした。