エコノメソッドでプロサッカー選手を育てるまでのブログ
サッカー愛にあふれたうんちく話

静岡県社会人リーグで出来た繋がり

「やまき屋FC」に加入

私は大学サッカーに挫折し,静岡県社会人リーグでプレーする道を選びました。

私は色々な人のつてを頼って,運よく静岡県1部リーグ所属の「やまき屋FC」の一員になることが出来ました。

この「やまき屋FC」はやまき屋という会社の同好会のようなものですが,私のような外部の人間も入部できました。

私は社会人サッカーがどういうものか分かっていませんでしたが,とにかくまたサッカーが出来る喜びの方が大きかったのを覚えています。

練習は週に1回だけ静岡市の高校のグランドで行われるだけで,県リーグの試合が活動の中心でした。

練習開始時間はメンバーの仕事が終ってからなので19時以降です。

大学生の私は原付に乗ってグランドまで通っていました。

そこに集まってくる人数は多くても10人程度でミニゲームをするぐらいでした。

おそらく社会人サッカーの大半はこんな感じだと思います。

私は大学生ですので時間はありますし体力も有り余っています。

物足りなさはありました。

しかし社会人の方と接する時間は,知らない世界に出会う時間でもあり,たくさんの刺激ももらえました。

この経験は教員採用試験に合格して三重県に戻り,FCペルソナという社会人サッカーチームを立ち上げたときに生きてくるのでした。

当時の社会人リーグの実情

当時の静岡県社会人サッカーリーグは1部であっても試合のほとんどが土にグランドでした。

河川敷も当たり前でした。

だからやっぱり今の環境は恵まれていると思いますし上手くなって当然だと思います。

チームには東海リーグに所属していたチームから移籍してきた選手や静岡国体メンバーのエースFWの選手,元清水商業高校の選手など,県リーグにはもったいないほどのメンバーがそろっていました。

相手チームにも元高校選手権全国優勝メンバーだった人とかが普通にいました。

私は彼らのあまりの上手さに衝撃を受けていました。

土のグランドでも華麗なテクニックを披露していました。

そして皆さん,熱い。

試合中の野次もすさまじく,ケンカになることもしばしばでした。

審判なんて悲惨です。

めちゃくちゃ言われました。

怖くて泣きたくなりました。

4年間ストッパーでプレー

それでもどこの馬の骨かもわからない私を快く受け入れてくれた先輩方には感謝しかありません。

ヘディングが強かった私をストッパー(今はこのポジションはまず無い)として試合にいつも出してくれました。

ただ,

「お前はヘディングだけしてればいい。」

という分かりやすい指示をもらっていましたが…。

それでも私のアグレッシブに走るプレースタイルは良い評価をしてもらっていたように思います。

おそらく社会人サッカーは圧倒的に練習量が少ないので,若さゆえの運動量でチームを支えていたのだと思います。

チームに所属して3年目だったと思いますが,チームは県リーグで優勝を果たすことが出来ました。

この年は愛知県で国体メンバーだった選手と,なんと仕事で静岡に転勤してきていた元日本代表候補だった選手がチームに加入していました。

もともとみんな上手でしたがこの元日本代表候補の選手は別格でした。

私は初めて目の前から人が消える感覚を味わいました。

ミニゲームをしているときに私はボールに食いつきました。

すると前に出た私の矢印を利用して私の背中側にボールを驚くほどスムーズに運んだのです。

わざと食いつかせる。

そんなプレースタイルでした。

私のサッカー人生の中で間違いなく1番上手い人でした。

初めての東海リーグ入替戦

この年は東海社会人リーグへの入替戦に参加することになりました。

会場は愛知県の港サッカー場です。

相手は愛知県代表の豊田自動織機というトヨタ系の会社のチームです。

残念ながら1対0で負けてしまいましたが,私はフル出場することが出来ました。

前半で退場者が出てしまい,後手後手に回る試合になってしまいました。

会社のチームと比べて練習量が少ないので,体力的にも一人少ないとかなりきつくなります。

それでも天然芝のスタジアムでプレーできる喜びは大きく,足がつるまで走ったことを覚えています。

私は東海社会人リーグの入替戦に6回チャレンジしましたが,この試合がその記念すべき1回目でした。

社会人サッカーで良かった

大学4年生になった私は教員採用試験に合格したので三重県に帰ることになりました。

やまき屋FCの一員として過ごせる最後に1年です。

残念ながらチームは東海リーグ入替戦には進めませんでしたが,コーナーキックからヘディングで2得点を奪う試合もありました。

シーズン終了後にチームの先輩方が私の送別会を開いてくれました。

私への選別に静岡の名前が入ったベンチコートをプレゼントしてくれました。

私は嬉しくて三重県に帰ってもずっと着ていました。

有名な高校や大学,社会人チームのユニホームもお古ですが記念にくれました。

飲み屋にも連れて行ってくれました。

大宴会をしました。

たくさん名残惜しくしてくれました。

大学サッカーはあきらめましたが,社会人サッカーで地元の大人とかけがえのない時間を過ごすことが出来ました。

試合会場までよく車に乗せてくれた先輩は,私が奈良での生活を始めた時に激励の電話をくれました。

あれから25年以上たっても気にしていてくれて有難い限りです。

人とのつながりが原動力になる

振り返ってみると人生にはたくさんの分岐点があり,選択を間違ったかなと思う決断もあると思います。

私は大学サッカーから逃げたことを今も後悔しています。

でも社会人サッカーでの素敵な出会いがあったので過去に戻りたいとは思いません。

三重県に戻っても社会人サッカーを続けられたのは,大学サッカーの後悔と社会人サッカーの経験のおかげです。

子どもの頃に思い描いたようなサッカー選手にはなれませんでしたが,人生としては面白いサッカー人生になったかなと思います。

何かを続ける原動力というのは結局は「人とのつながり」なんでしょうね。