エコノメソッドでプロサッカー選手を育てるまでのブログ
サッカー愛にあふれたうんちく話

サッカーで生きる

サッカーとの出会い

私はサッカーが不毛の地域で幼少期を過ごしました。サッカーとの出会いは学校の体育。4年生の時でした。

当時は野球が主流で,サッカー少年など皆無。私も父が阪神ファンだったこともあり,友だちと草野球チームを作って放課後は野球をしていました。

しかし,私はその野球に不満を持っていました。それは「ピッチャーとバッターは楽しいがそれ以外はボールがないとやることが少ない」ということです。

ピッチャーがストライクを投げられないと攻撃の機会がやってこないし,攻撃の機会が来ても自分の打順が回ってこなければすぐに守備。打順が回ってきても相手がストライクを投げられなかったらバットも振れない。

子ども心に待ってばかりで「つまらんなあ。」と思っていました。

そんな時、体育の授業でサッカーをすることになりました。私は衝撃を受けました。自分次第でボールをどれだけでもさわれるし,すぐに攻撃も守備もできる。なんて面白いスポーツなんだ。一瞬で私はサッカーの虜になってしまいました。

そもそも私は落ち着きがなかったのだと思います。野球のように攻守が明確に分かれているスポーツより,サッカーのようにカオスなスポーツが合っていたのでしょう。

4年生の体育の授業を境に私はサッカーと生きることになりました。

草サッカーチーム結成

私の実家がある地域にはサッカー少年団というものはありませんでした。そもそも少年団と言うものがどんなものかも知りませんでした。

キャプテン翼を読むと「南葛小」と「修哲小」が学校対抗戦をしていました。当然,私の学校にはそんなものはありません。

だから私はサッカーチームを作ることにしました。実は野球も同じようにしていのですが,友だちに声をかけて仲間を集めて「上地FC」を作りました。上地とは地域名です。

私はどうしても背番号を付けたかったので,体操服に取り外しができるボタンを縫い付け,放課後にサッカーをする時だけ番号付きのゼッケンをつけました。

このアイデアが流行し,同じ小学校内の他の地域の子どもたちもサッカーチームを結成し,ボタンのゼッケンをつけて,地域ごとの対抗戦のような試合が学校の運動場で行われるようになりました。

当然私はキャプテン翼をまねして10番。いっちょまえにキャプテンでした。

サッカーマガジンを親に買ってもらうようになったのもこの頃。ひたすら読み込みました。プレゼント募集にも申し込みましたし,絵を描いて掲載されたこともありました。

マラドーナがメキシコワールドカップで神の手ゴールや5人抜きをしたビデオを親に頼んで録画してもらい擦り切れるまで観ていました。マラドーナが履くプーマのシューズがかっこよくて,私は現在もスパイクはプーマと決めています。

全てがかがやいて見えました。

サッカー部が無い中学に入学

私はどうしてもサッカー部に入りたかったです。でも進学する中学校にはサッカー部がありません。

そこで私が考えたのが転校です。市内の中学校でサッカー部があるのは1校だけ。そこに転校しようとしたのです。親に相談すると「何を冗談言ってるんだ。」という感じで本気にしてもらえませんでした。私は引き下がるしかありませんでした。

長距離走は小学校から速かったです。当時はマラソン大会があり,私は6年間ずっと学年1位でした。プチ自慢です。だから別にマラソンが好きではなかったのですが成り行きで中学校では陸上部に入ることになりました。

でも,心の中はサッカー一色です。だから陸上部の練習が嫌で嫌で仕方がありませんでした。とはいえどうもできないので家で一人リフティングをする日々でした。

中学3年生になりました。市内の高校にセルジオ越後さんがサッカークリニックで来るという情報を祖父が教えてくれました。私が「行きたい」と言うと,祖父がその高校まで送迎してくれました。

初めて見るサッカー選手。ワクワクとそわそわが止まりません。セルジオ越後さんは嘘みたいなテクニックを見せてくれました。目玉が飛び出るような驚きでした。私はついに本当のサッカーに出会ったのです。

そのクリニックでは最後にミニゲーム大会があありました。一緒のチームになった仲間がやたら元気があり,一人で参加していた私に積極的に声をかけてくれました。この中の一人が後の高校のサッカー部でチームメイトになり,今でも色々と相談に乗ってくれる大切な友人になります。

高校デビュー

ついに高校で念願のサッカー部に入りました。練習時に先輩たちはかっこいいユニホームを着ています。スパイクも履いています。放課後に当たり前のように練習をしています。私は高校の体操服でしたが,そんなことはお構いなしです。夢にまで見たサッカーのために学校に通う日々がついに始まったのです。

しかし待っていたのは監督がいないサッカー部の現実であり,中学にサッカー部があった人とそうでない人との練習内容の格差でした。

特に上級生からの理不尽な走りには驚きました。際限なくグランドを走らされるのです。水も飲めません。そんな練習は今ではあり得ないかもしれないが,当時では当たり前だったのかもしれません。

それでも私はサッカー部に所属していると言うだけで楽しかったのでした。

私はサッカー経験者に食らいつき,ついに試合に呼ばれるようになりました。

最初にもらったユニホームの感動は忘れもしません。オランダ代表モデルのユニフォームで背番号は20番でした。サッカーのユニホームを着て試合に出ると言う私の夢がかなった瞬間でした。

監督がいないチーム。自分たちで練習を考える日々。私が引退するまでの最高成績は県でベスト16。

最初の私のポジションはCB。ヘディングには自信があったのでいわゆるストッパーでした。自分たちの代になってからはCFにポジション変更。持ち前の走力で相手の背後に走りまくりました。

サッカーの原則は誰も教えてくれませんでしたが,本質は分かっていました。

「点を獲って勝つ。ゴールを守ったら負けない。」

たまたまポジションがCBとCFだったことでより本質だけが強く心に残る高校サッカーでした。

不思議な縁なのですが,私たちの代のユニフォームはルコックのスペイン代表モデルでした。現在の私はそのスペインのサッカーに共感し学んでいます。

後悔の大学生活

私は「サッカーの街,静岡に行きたい」というただそれだけの理由で大学へと進学しました。しかし,そこで待っていたのは一生後悔することになる出来事でした。

それは大学のサッカー部を辞めたことです。

私は大学でもサッカー部に入りプロを目指そうと思っていました。だから入学と同時にサッカー部の練習に参加しました。高校では監督がいなかったので監督に指導されることも新鮮でした。楽しみな日々が始まったと思っていました。

しかし,当時の先輩後輩の上下関係にはまたもや困惑しました。さらに同級生の嫌がらせも私をサッカーから心を奪わせました。監督がいないサッカー部出身の私は彼らが当たり前にやって来た練習の仕方を知りません。だからいじりがいがあったのでしょう。

徐々にサッカー部の練習に行くことが嫌になってきました。

そんな時,大学の新入生合同合宿のようなものがありました。その日はサッカー部の練習日でもありました。私がとった行動は,「サッカー部の練習を休む」という行動でした。

この日のことは今でも覚えています。私は大学生になった心のゆるみの中で1番大切にしてきたものを見失ってしまったのでした。

「上下関係がいや。」「あいつらのいじりがいや。」等,色々と言い訳をして自分に嘘をついてしまいました。

その日以来,サッカー部のグランドに行くことが苦痛になり,サッカー部員にはできるだけ会わないように過ごす大学生活になってしまったのです。

結局大学時代は社会人チームでプレーを続けました。これはこれですごく良い出会いと経験ができ,私の人生の宝物にはなったのですがが,どこかで「もうプロサッカー選手にはなれない」という思いを抱いていました。

社会人サッカーチーム「FCペルソナ」結成

大学を卒業後,実家のある三重県に戻り,小学校教諭としての人生を歩むことになりました。

サッカーは続けたいという思いがあったので,地元の同級生とともに社会人サッカーチームを結成することになりました。それが「FCペルソナ」です。今は別のチーム名で活動を続けていますが,立ち上げメンバーとして三重県リーグを戦うことになったのでした。

このチーム結成こそが私の人生を「サッカーで生きる」道へと促していくことになるのです。