今日はオフ日だったのでTVerで「女王の教室」を観ました。
なかなか過激な内容で,長男や二男にとっては刺激的でした。
特に二男は「こんなんいかんやろ。俺やったら訴えるわ。」とえらそうに言っていました。
でも最終回を観て二男は180度考えが変わり,「先生の言っていることは正しいわ。」と言い出しました。
ドラマの影響を受けやすい二男(^^)
私はつい自分のことのようにドラマを観てしまい,先生目線で胸がキュッとなったり,「わかる!」と頷いたりしていました。
「罰」について
「罰」の良し悪しについては議論を避けますが,一応立場を明確にするのなら私は子どもの指導に「罰」は反対です。
子どもたちと学級のルールについて話し合うと,まあまあの確率で子どもたちから「罰」を与えることでルールを守らせるという意見が出ます。
子どもたちは「罰」を受けることは嫌なのに,ルールを決める側になると「罰」を作ろうとするのです。
子どもが考える「罰」は,「宿題が増える」とか「罰ゲーム」をするなどの「罰」なんですが,それでも「罰」という発想になるから不思議です。
自然と人間社会の仕組みに従おうとするのでしょうね。
でも私は必ず反対をします。
なぜなら「罰」を受けたくないから仕方なく守るルールは,決して学校生活に優しさや安心をもたらさないからです。
さらに「罰」は次々とエスカレートしていき,そもそもの目的を見失いやすいからです。
何のためにルールがあるのか?
何のためにルールを守るのか?
この考え方を見失ってはいけません。
子どもたちには「罰」ではない方法を粘り強く考えさせます。
当事者意識を持って考えたルールなら意外と守れるものですし,そこに優しさや安心があれば誰もが幸せに生活できるものです。
ドラマでは子どもたちが工夫してルールを守ろうとしていました。
「1日に1回笑顔になろう」や「あいさつでアロハと言おう」などの前向きなルールを作って,明るく自分たちの生活改善を図っていました。
「連帯責任」について
「女王の教室」では「連帯責任」もたくさん出てきました。
「連帯責任」という言葉が独り歩きして,一人の子の失敗により周りが迷惑するという発想になりがちですが,それは間違いです。
なぜ一人の子の失敗を仲間の問題として受け止められないのか。
そのことの方が集団生活の中ではよっぽど問題です。
例えばこんなことがありました。
裁縫の時間に,Aさんが針を無くしました。
子どもたちには同じ机のグループ内で針の数の確認をするように指導してありました。
Aさんのグループはその確認を怠りましたが,確認をしたと誤魔化したのです。
床に針が落ちていたので,全員に誰の針かと問いただすと,Aさんが「自分です。」と名乗り出ました。
Aさんは借りものの裁縫セットだったこともあり,もともとの自分の針の数も分かっていませんでしたから,多少は不可抗力もありました。
でも,私はグループに対して「なぜ確認をしなかったのか?」と聞きました。
するとAさんは,
「グループは関係ない。落としたのは自分だから,自分が悪い。連帯責任はおかしい。」
と私に言い返しました。
Aさんは優しい子です。グループをかばったのです。
私は,
「針を落としたことはAさんが悪いです。でも,なぜAさんだけが悪いのですか?グループで確認をしていればみんなでAさんを守れたのではないですか。これは連帯責任ではなくグループの責任です。」
と説きました。
Aさんは二度と針を無くしませんでした。
「本気」について
最後に「女王の教室」を観て私が1番心に響いたことは「本気」かどうかです。
先生の本気は子どもに伝わります。
子どもが本気になれば子どもの今が変わります。
子どもの今が変われば未来が変わります。
そうやって未来に希望が持てるきっかけをもらう場所が学校であり,子どもは学校で無限の可能性を広げていくのだと思います。
だからこそ「本気」が必要なのです。
「本気」で勉強する。
「本気」でケンカする。
「本気」で遊ぶ。
「本気」で食べる。
子どもが「本気」であることが大事で,やることは何でもいいのです。
「素直」について
二男に
「女王の教室みたいに家でもしてあげよか?」
と言ったら,
「いいわ。パパやと親子やからケンカになる。」
だそうです。
確かに・・・。
最近の長男と二男はドラマで感性を育てています。
多分親に言われるより「素直」になれるからですね(-_-)