内容はちょっと過激なので,あくまで持論かつ私見だと言うことをご理解ください。
自己満足
私はどちらかと言うと短気です。
だから子どもたちを指導する際に,子どもたちの気になる態度や行動があるとすぐに感情的になってしまいます。
気持ちを押さえられずに厳しく指導してしまうことも多々ありました。
聞いている子どもが「ビクッ」となるほどの大声で叱ることもありました。
私は,それだけ先生が情熱を込めて指導している証であり,子どもへ「愛」のある指導だと思っていました。
でも「厳しさ」と「愛」は本当にイコールなのでしょうか。
冷静になって振り返ってみると,当時の私はただの「自己満足」だったように思えてきます。
先生と言う立場を利用して子どもに自分の理想(都合とも言う)を押し付ける手段が,「情熱」「愛」と言う言葉にすり替えた「厳しさ」だったのではないか。
子ども主体と指導者主体
確かに「情熱」は相手に伝わる感情だと思います。
でもその「情熱」が本当に子どものためなのかについては,自身の経験上かなり疑わしいような気がします。
もしかしたら私は「自己承認欲求」を満足させるために子どもを利用していたのかもしれません。
子どもが素晴らしい成果を上げればその子どもを指導していた先生が良い評価をされる。
一見子ども主体に見えて実は指導者主体。
きっと私はそんな指導者だったのです。
名指導者ってどんな人?
毎年,高体連や中体連,各街クラブで全国大会などが開催されると,子どもが挙げた「勝利」や「賞」などの成果と共に「名指導者」の話題が必ず出ます。
その名指導者は確かに子どもに素晴らしい「結果」をもたらす指導者です。
その指導者の努力や知見など,本当に称賛されるべきものだと思います。
でも「名指導者」と言う言葉って必要でしょうか?
指導者は子どもを豊かに育てることが仕事であり役目です。
だから勝とうが負けようが,素晴らしい結果だろうがそうでなかろうが,子どもたちが豊かに育つきっかけを与えられている指導者は,あえて言うなら全員が名指導者だと思うのです。
そしてそんな指導者はきっと自分が主役にはなりません。
主役は子ども
私は残念ながら名指導者ではありませんでした。
感情的に叱ってしまうこともありましたし,子どもたちの結果に鼻高々になることもありました。
当時の私に助言してあげたい。
「お前,自分が褒められたいだけやろ。」
でも一つだけ名指導者の方々に近づけるところがあるとするなら,私は「主役は子ども」にだけはこだわりました。
子どもが,自分で考えて自分で行動した結果が成功であっても失敗であっても,それはその子どもの確かな学びとなる。
そう信じていました。
だから,いつも子どもの手作り感満載でした。
子どもたちにとっては先生がお膳立てしてくれたら楽だったでしょうが,残念ながら私はそんな先生ではありませんでした。
ちょっとしたイベントの台本も自分たちで考えさせていたので,時間がかかるし,困ったことも起きました。
それでも,子どもたちは何とかやっていましたし,自分の努力が自分の評価に直結する経験を積んでいました。
私が担任すると,他の先生からしたらいちいち面倒くさい子どもが育っていたかもしれませんが、私は子どもなんだからそれでいいと思っていました。
私は,子どもを優勝させられるような指導はおそらくできません。
でも,優勝したいと思う子どもは育てられるように思います。
サッカーは武器にもなる
先日,コーチらしき人がセンターサークル付近で審判をしながら,自分のチームの子どもたちを「お前!」と呼び,命令や駄目出し,暴言,野次を大声で繰り返していました。
子どもたちは,それでもコーチの言うことを聞いて炎天下の中,走っていました。
きっとコーチの言うことを聞かないと,このチームに居場所が無いのでしょうね。
このコーチらしき人は公立小学校で1週間ほど研修を積めばわかります。
サッカーという武器が無い自分が,すべての子どもに豊かな教育をすることの難しさを。
教育に武器などいらないのです。