何のために勉強をするのか。
何でこんな勉強をしなきゃいけないのか。
こんなんやって意味があるのか。
この勉強の内容,生活で全く使わんし。
まあ色々と文句はあると思います。
でもこのように考える子の方がきっと本質を見ようとしている子なので,賢くなる可能性を秘めていると思います。
「ふーん。まあそんなに悩まんと,とりあえずやっとこか。」
という子は短期的にテストの点数は取れると思うのですが,その考え方で成功体験をするので,何かを成し遂げるときの困難に弱いと思います。
どっちが良いと言う話をしたいわけではありません。
別にどちらでも良いですが,残念なことに本質をみようとする子ほど学校教育では苦労するでしょう。
なぜならば学校には卒業までに履修しなければいけない単位(カリキュラム)があるからです。
いちいち本質をみようとしていたら時間が足りません。
だから授業についていけなくなって,勉強が面白くなくなるのです。
悪循環ですね。
目の前で二男が期末テストの勉強をYOUTUBEでしています。
苦手の理科を何とか理解するために,お気に入りの動画で学ぶ作戦です。
私は動画を観ているだけでは絶対に定着しないと思っているので,やらないよりはましかという気持ちで二男の様子を眺めています。
今日はフレミングの左手の法則に苦戦していました。
そもそも磁界って何?
力って何?
電流て何?
おそらく二男の頭の中ではこうなっていると思います。
なのにテストはやってくる。
理解していないのに覚えなきゃいけない。
これは苦痛です。
きっと私がこんな性格なので二男もそうなってしまったのでしょうね。
二男は「無理」とか言って,諦めてしまいました。
フレミングの左手さん,カムバック!
先日,二男が「漢詩なんてまったく意味わからん」と嘆いていました。
確かに漢字が並んでいて難解な文章です。
でも現代まで大切に伝承されてきたと言うことは,国語力を高めるために非常に有効な教材だと言うことです。
まずは丁寧に作者に寄り添うことが大切です。
そうすれば作者が観ていた景色や感じていた想いを想像できますし,自分のことに置き換えれば,他人事ではなくなります。
例えば,正岡子規の「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」という俳句に寄り添ってみましょう。
柿を食っているのは作者とします。
法隆寺の鐘の音が聞こえる場所で柿を食っていた作者の様子が想像できます。
季節は秋ですね。
鐘を鳴らす時間は何時でしょうか。
何となく夕暮れが似合いそうです。
なぜ作者は柿を食っていたのでしょうか。
腹が減っていたのか,それとももらったのか,ましかしたら干し柿かもしれません。
どこで食べていたのでしょう。
きっと鐘の音が聞こえるくらいだから法隆寺の近くでしょうね。
茶屋かもしれません。
奈良は柿の名所ですからね。
この句からは穏やかさや悠久の時間を感じられても,恐ろしさや苦しさや厳しさは感じられません。
二男にはこの感覚が育っていません。
孟浩然の「春暁」の1句「春眠暁を覚えず」について,
「これって春の朝が気持ち良すぎて夜が明けたことに気づかなかったってことやろ。ゆっくりと寝れて最高やよな。お前らは学校に行かないかんから,こんなにゆっくり寝てられやんもんな。ということは作者は何をしている人なんやろな。」
と聞くと二男は,
「暇なんちゃうん。それか仕事が休みか。」
と答えました。
はい,もう自分のことになりました。
2句が「処処啼鳥を聞く」とあります。
作者が鳥たちのさえずりを聞いていることが分かります。
こんな朝は気持ち良すぎですよね。
最高です。
ほら作者が観ていた景色や色や嗅いでいた匂い,聞いていた音が,想像しやすくなりました。
つまり漢詩は国語の勉強なので,漢詩を題材にしながら,確かな読解力と豊かな感性を育てようとしているわけです。
二男は,この話をしていたら漢詩を楽しみだしました。
「おれはこの詩は好きやわ。だって寝坊できるし。なんかキレイやし。」
もう二男は本質をみようとしているので、勉強がやらされるものから楽しむものに変わっていますね。
さてさてテストの点数と感性が一致しだしたら二男の勝ちですね(‘ω’)ノ
二男よ,感性豊かにがんばりたまえ!
あ,フレミングの左手が帰ってきました。
もうちょっと粘るそうです。