最近,佐伯夕利子さんの著書「本音で向き合う。自分を疑って進む。」を読みました。
佐伯さんの経験が丁寧に綴られていて大変感銘を受けました。
そこで今回は自分を遠慮なく疑うことにしました。
今更,SNSを利用して白状するのが良い事なのか分かりませんが,私は教諭時代によく大声できつく叱る教師でした。
こどもと本音で向き合い,熱く想いを伝えることは,正しいと思っていました。
そうすることで,一見こどもたちが落ち着いたりするので,想いが届いたような気持ちになっていました。
本気で叱ることは大切だとは思いますが,大声できつく叱ることと同じではないと,この本を読んで猛省しました。
本当に今更で情けない気持ちになります。
きっと私に叱られたこどもは怖かったでしょうし,その大声を聞いているこども達も不愉快だったでしょう。
もしかしたらその記憶がトラウマになっているかもしれません。
これまでのこども達に申し訳ないです。
人として大切なことを学んでほしい。
そんな一心で,教師が本気でこども達にぶつかっていくことは,決して間違いではないと思います。
しかし,本気のぶつかり合いが大声で叱ることになるのは,ただ指導法が未熟なだけであり,武士の時代の封建的な手法です。
そもそも教師と児童の関係は,教える側と教えられる側に分かれることになるので,いわゆる主従関係になりやすいです。
いわゆる上下関係でありトップダウンです。
教師の言うことを聞かないこどもは問題がある。
きっと私はそんな思考に支配されていました。
これはの日本の歴史的な課題なのか,それとも私個人の感性の未熟さなのか,どちらにしても,こどもたちに罪はありません。
例えば,こどもの自主性を育てるために,宿題で自主勉を課して提出義務を与えたとします。
自主と言いながら義務なので提出しないと叱られる。
そもそも宿題なので自主ではない。
私はこの矛盾に気付いていませんでした。
確かにきっかけは大切です。
義務を課すことで気づくことや定着するものもあります。
でも誰かに与えられた気づきや定着は,主体的に獲得したものではないので,普遍的な力にはならないと思います。
それが自主性ならなおさらです。
こどもが自主性の価値に気づくときはどんなときでしょうか?
それは「自主的に行動したことに価値を感じたとき」だと思います。
そのためにはこどもに「自主的に行動するきっかけを与える」ことと「行動の成果を確かに評価する」ことが必要になります。
それが学校なら教師の仕事になります。
義務を課してやらしていましたし,やらなかったことや出来なかったことを叱っていました。
はあ,私は大きく間違っていました。
あんなに自己満足な教師になってはダメだと思っていたのに,結局は自己満足がダメだと思っていることに自己満足している教師で終わってしまいました。
こどもは未熟だからこどもです。
問題行動はこどもらしさです。
その問題は教師にとっての問題であって,こどもにとっての問題ではないのです。
なぜそれがこどもにとって問題なのか?
どうすれば問題にならなかったのか?
それらに気づけるように対話したり,体験をしたり,振り返ったり。
そうやって,中・長期的にこどもを見守ることが結果的に短期的な成長に繋がるのかもしれません。
はあ,やり直したい。
ふと過去を振り返ると,あの時,あの場面のこども達の様子が思い浮かびます。
心から「ごめんね」と思います。
私の人生は今のところまだ続きそうです。
残りの人生で私が出来る事は,この気づきを行動で示したり,このように発信したりすることだと思いました。
これからは教師としての私や親としての私の嘆かわしい経験を遠慮なくこのSNSで紹介していきますね。
未来に進むために,過去を美化しない。
これからはきちんと自分を疑っていきます。