学校の仕事もそう。
サッカーの指導者もそう。
私はどちらも経験をしました。
現場には間違い探しのように白か黒かどちらかに分けることが意外と多いように思います。
正解と不正解。
正解が良くて,不正解は悪い。
こどもは正解すると褒められて,不正解すると叱られる。
だから正解しか言わないし,間違いたくないから不安な時は黙る。
教師や指導者がいくら「間違っても良いよ。何でも言って良いよ。」と言ったとしても,こども心はそうはいきません。
間違った時の周りの目,恥ずかしさ,色々と社会的な要因でこどもたちは失敗を恐れてしまうのです。
でもよ~く考えると,そもそもこっらが正解で,あっちが不正解と分けることに本当に価値があるのでしょうか。
Aの立場ならBが不正解にもなるし,Bの立場ならAが不正解にもなります。
つまり相手の立場や心情,社会的背景,等様々な要因を考慮したとしても,立場が変われば白黒も変わります。
それぐらいあやふやなものなのです。
そもそも2つに分けることの利点は何でしょう。
教師や指導者が都合良く指導が出来る。
こどもの思考をシンプルに整理が出来る。
それぐらいですかね。
それはそれで悪くないのですがそれはきっと指導者の都合です。
本当にこどものためになっているのかと言われればちょっと悩みます。
なぜなら「私は良くて,あなたは悪い」という極端な考え方をするこどもが育ちやすいからです。
例えばサッカーの指導で考えます。
良いプレイと悪いプレイ。
これらを分けるとしたらどうやって分けますか?
シュートのシーンを思い浮かべてください。
シュートを撃つべきタイミングでシュートを撃った選手はきっと良いプレイをしました。
そのシュートがゴールに入ったらかなり良いシュートです。
ではシュートを撃つべきタイミングでシュートを撃たなかったら悪いプレイで,シュートがゴールに入らなかったら悪いシュートになるのでしょうか。
良いとは?
悪いとは?
ことば遊びみたいになってしまうのも変ですが,こどもに伝える言葉は脳への影響も考えると丁寧に選ばないといけないなと思います。
結構大変ですよね。
でも言葉に拘ることは,言葉でコミュニケーションをとる人間には絶対に必要なことです。
話を戻します。
シュートを撃つべきタイミングを学ばせることは良い指導だと思います。
ゴールに入る可能性を上げるシュートの技術を学ばせることも良い指導です。
でもその結果,こども達がシュートを撃たなかったり,シュートがゴールに入らなかったりした場合,そのプレイの良し悪しを判断するのは誰なのでしょうか?
ほとんどの場合は指導者です。
指導者が判断してこども達を良いか悪いかで分けています。
これではこどもに主体性はありません。
だったら
「良いプレイをしたい」
「良いシュートを撃ちたい」
と思えるこどもを育てることの方がよっぽど大事じゃないですか。
主体的な思考には良し悪しが有り,主体的に実行した結果には良し悪しは無い。
結局は「気持ちかい!」「感情論かい!」ってなりますが,人間なんで仕方ないですよね。
私達はAIじゃありません。
過去の膨大な情報から最適解を選んぶことより,最適解を出すためにもがいたり悩んだり苦しんだりすることが人間らしいですよね。
教師も指導者も人間らしく,感情を豊かに表現し,こどもと共に悩み,目的達成に向けて右往左往したいと思います。
求めている結果が出れば嬉しいし,違えば悔しい。
それを繰り返すことが正解。
おお!
ちょっとスッキリしましたね。
今日も人間らしく頑張ります!