子どもありき
久しぶりの学校話です。
夏休みが終わり,そろそろ気持ちも切り替わったころだと思います。
3学期制の学校なら2学期が始まり,前期後期制なら前期のまとめの時期となります。
どちらにも長所と短所があります。
大切なことは「どんな子どもを育てたいのか?」であり,そのために「適した期間」を設定することなのです。
結局は教育の目的の最初に来るのは「子どもありき」なんです。
いわゆる「ゆとり教育」
いわゆる「ゆとり教育」は平成14年度から実施されました。
私はすでに教諭として小学校現場で勤務していましたので当時の変化の様子は実感としてわかります。
例えば,各教科の指導内容や授業時数が縮減されたり,総合的な学習の時間が生まれたりしました。
土曜日も各週休みから毎週休みになっていきました。
私は昭和から平成にかけて学生時代を過ごしました。
宗田理さんの「ぼくらの七日間戦争」で描かれている世界がまさに私の頃の学校の姿でした。
なぜその学習指導要領が改訂されたのでしょうか。
文部科学省のホームページを参考にしてください。
https://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/cs/1320944.htm
改善の基本的視点を抜き出すと以下のようになります。
完全学校週5日制の下で、各学校が「ゆとり」の中で「特色ある教育」を展開し、子どもたちに学習指導要領に示す基礎的・基本的な内容を確実に身に付けさせることはもとより、自ら学び自ら考える力などの「生きる力」をはぐくむ。
- 豊かな人間性や社会性、国際社会に生きる日本人としての自覚の育成
- 多くの知識を教え込む教育を転換し、子どもたちが自ら学び自ら考える力の育成
- ゆとりのある教育を展開し、基礎・基本の確実な定着と個性を生かす教育の充実
- 各学校が創意工夫を生かした特色ある教育、特色ある学校づくり
簡単に言えば,受動的な教育から能動的な教育への変換です。
子どもが主体となる教育です。
つまり「子どもありき」,サッカーで言えば「プレイヤーズファースト」ですね。
現在の当たり前が,これまでは当たり前じゃなかったということです。
もう一度言いますがどちらにも長所と短所があります。
だから過去がすべて悪いと言うことではなく,過去から学び,より良い方向に改善をしたということです。
当時私が勤務していた学校は三重県の山奥の学校でした。
1クラス20名に満たない単級の学校でした。
自然がかなり豊かで山水が生活用水に使える地域でした。
若かった私は,総合的な学習の時間に子ども達と校区内の川に出かけて自然観察をしたり,手作りの釣り竿で釣りをしたり,他校との交流会でバーべキューをしたりしました。
子どもたちは全身ずぶぬれになって川の中で魚をつかまえたり,釣りの際のエサになる川餌を探したりしました。
地域のすごいところを探して見学に行ったり,撮影をさせてもらって地域紹介動画をつくったりしました。
保護者の方は釣り竿用の竹を提供してくれたり,釣った魚をさばいてくれたりしました。
地域の方も快く撮影に協力してくれました。
とにかく子どもたちと話し合いながら色々なことに挑戦していました。
これが「生きる力」と言うなら,まさにそれをゆっくりと落ち着いた時間の中で,体験学習を中心に育んでいきました。
そのころの子どもたちはもう30代になっています。
小学校の子どもがいるぐらいの子育て世代です。
どんな親になっているのでしょうね。
主体的・対話的で深い学び
しかしこの「ゆとり教育」は10数年後に方向転換をすることになります。
平成29・30・31年に学習指導要領が改訂されました。
https://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/new-cs/1383986.htm
文部科学省のホームページでは改訂に込められた思いが以下のように紹介されています。
学校で学んだことが,子供たちの「生きる力」となって,明日に,そしてその先の人生につながってほしい。
これからの社会が,どんなに変化して予測困難な時代になっても,自ら課題を見付け,自ら学び,自ら考え,判断して行動し,それぞれに思い描く幸せを実現してほしい。
そして,明るい未来を,共に創っていきたい。
「学習指導要領」には,そうした願いが込められています。
これまで大切にされてきた,子供たちに「生きる力」を育む,という目標は,これからも変わることはありません。
一方で,社会の変化を見据え,新たな学びへと進化を目指します。
「学習指導要領」の内容を,多くの方々と共有しながら,子供たちの学びを社会全体で応援していきたいと考えています。
主体的・対話的で深い学びと言われる教育です。
分かりやすく言えば,時代の変化に対応できる「生きる力」を育てるための改定だと言うことですね。
外国語が教科になり,道徳が特別の教科になりました。
論理的な思考を育てることを目的にしたプログラミング教育が導入され,これからの時代をたくましく生きる子どもたちを育てようとしていることが明白です。
それに伴っていわゆる「ゆとり教育」で縮減されていた学習内容が復活し,子どもたちは多様な学習内容を詰め込んでいくために,穏やかでゆとりが少ない学習に戻りました。
それは指導者も同じです。
変化に対応することは容易ではありません。
また言います。
どちらにも長所と短所があります。
大切なことは「子どもありき」かどうかです。
そう考えると「子どもありき」が明確になり,「ゆとり教育」で「生きる力」を育んだ子どもたちが30代になり,これから社会の中心として世の中に影響を与えていくと言う時に方向転換してしまったということは残念だと思います。
学力とゆとり
私は単純に「学力」=テストの点数とは思いません。
学力とは学ぶ力です。
何をどのように学ぶのか。
学んだことをどのように生かすのか。
私は活用するところまでが学力だと思うのです。
そう思うと山奥の子ども達が総合的な学習の時間に体験した「竹を使って釣り竿を作り,川で餌を調達し,釣った魚を有難く食す。」という学びは,テストの数字では表せませんが,生きるために活用できています。
つまりこれは学力です。
今日は二男が「ああ,学校や。地獄や。」とぶつぶつ言って登校しました。
二男は学校の何が地獄なのでしょうか。
二男にも課題があると思います。
でも本当に学校が子どもありきなら,このような気持ちが多少は減るのではないでしょうか。
天国とは言いませんが地獄でもないはずです。
私は教職を離れてしまったので偉そうなことは言えませんが,子どもたちにとって学校が天国に近い場所になるためには,原点である子どもありきになることが最適なのでしょう。
「ゆとり=楽」とするのではなく,「ゆとり=落ち着き」と考えたいものですね。