昨晩,二男が数学の問題の解き方を聞いてきました。
主体的。
これが二男の課題です。
私は「おっ!いいやん。」と思いました。
テスト範囲の連立方程式の文章問題がわからないと言うのです。
老眼が進行中の私は焦点を合すのに苦労しながら問題文を読もうとしました。
すると二男は文章問題の「分かること」に線を引いていました。
「分かること」とは問題を解くために必要な情報で主に「数」です。
これは二男が小学校の時から算数の問題を解くときに,しつこく言い続けてきた解き方でした。
「ついに自分から線を引くようになったのか。」
と私は嬉しくなりました。
しかし「聞かれたこと」には波線を引いていなかったので,もうちょっとという感じですね。
「聞かれたこと」とはこの問題で何を答えるかです。
例えば
「お皿にドーナツが2個,チョコレートが5個のっています。全部で何個ありますか。」
と言う問題なら,
「分かること」は「ドーナツが2個」,「チョコレートが5個」で,
「聞かれたこと」が「全部で何個ありますか」です。
この問題は単純な足し算です。
そんなに甘いものを食べたら血糖値が心配ですので,ぜひ誰かと分けることをお勧めします(^^)
ちなみに二男が困っている問題の「聞かれたこと」は
①何をxとyにするのか?
②xとyを使った連立方程式は?
③xとyの値は?
でした。
二男に説明しながら感じたことは,二男が文章問題から見えてくる「場面」を想像できていないということでした。
例えば,Aさんが自宅から最寄りの駅まで最初は歩いて,途中から走って向かったとします。
自宅から駅までの道のりと到着するまでにかかった時間は分かっています。
歩いている時の分速と走っている時の分速も分かっています。
ここで面白いと思ってほしいのですが,Aさんはどうやって自分の速さを計測したのかです。
特別な装置でも持っていたのか?
なーんて考えれば数学が国語とリンクしてAさんの生活の場面まで想像できて学習が退屈ではなくなります(^^)
横道にそれ過ぎたので戻ります。
Aさんが歩いた道のりをx,走った道のりをyとすれば,
「x+y=自宅から駅までの道のり」
が一つ目の式と言うことになります。
よってもう一つの式は,時間=道のり÷速さで求められるので,
「x÷歩いた分速+y÷走った分速=駅に到着するまでにかかった時間」
ということになります。
これで連立方程式が完成です。
二男はただ数字を追っていただけで文章問題から見えてくる「場面」を楽しく想像していませんでした。
だからやらされ感が上がり,勉強が「嫌」になってしまうのです。
私は,
「Aさんは途中まで音楽でも聞きながら余裕で歩いていたけど,ふと電車の発車時刻に間に合わないと気づいて慌てて走ったんやろな。間に合わなかったら悲惨やな。」
と勝手に場面を想像しました。
自分の速さはスカウターか何かで計測したのでしょうね(^^)
この話を二男にすると「なるほど。」と言う顔になりました。
大切にしたいことは「中学校の数学は小学校の学習内容が基礎になっている」ということです。
「読解力」や「速さ」など小学校で学んだ内容です。
どんなに文字や記号がたくさん出てきたとしても,やっていることは小学校の応用かつ発展なのです。
この日就寝時に二男が,
「数学はパパに教えてもらったから分かった。」
と呟きました。
私は,
「ずっとそうやって教えてきたんやけどなあ。」
と思いましたが,おそらく二男の発達的にようやく教えたことが「実感」として理解できるようになったのだと思います。
そう考えると,これまでの私は二男に厳しすぎたなと思いました。
人には発達速度には違いがあって当然です。
ちなみに長男は3年間の寮生活で,山梨県の公立中学校の授業の進度についていけずに苦しみました。
それは二男と同じで発達速度が間に合っていなかったのでしょうね。
現在の長男は小学校の算数からやり直しています。
格好悪いかもしれませんが基礎が未完成なのですから,どんなに応用かつ発展的な内容を学習しても安定しません。
揺れて危ういだけです。
その成果もあって長男のノートは定規を使って丁寧にまとめられていますし,計算の途中の式もさぼらずに書けるようになりました。
確実に基礎が強固になりました。
長男と二男の逆襲の始まりです。
たぶん…。
いやそう信じます(‘◇’)ゞ
全国の小学生の皆さんへ。
楽しみながら強固な基礎を創りあげてくださん。
そうすれば「あべのハルカス」を超えるようなビッグな建造物(人生)を建てることが出来ますよ。