エコノメソッドでプロサッカー選手を育てるまでのブログ
(仮の題名)「サッカーが大好きな国でプレーするまでの話」

疲労骨折

疲労骨折

コロナ禍でも感染することなく過ごすことが出来た長男はついに中3になりました。県外遠征もできるようになりました。関東遠征では柏レイソルや鹿島アントラーズとも対戦をしました。長男はこれまでのうっ憤を晴らすかのようにプレイを楽しんでいました。もはや恒例となっていたヴァンフォーレ甲府との対戦でしたキレキレのドリブルで相手を翻弄するプレイを見せてくれました。この先の進路のことを思うと,まずはクラブユースで全国大会に出場することが目標になります。

そんな矢先でした。関西遠征でFC岐阜と対戦をしました。相手をかわした長男は前方を伺うようにドリブルをしていました。すると長男の死角から相手の激しいタックルが長男の右足に入りました。体勢を崩してその場に倒れ込む長男。近くで見ていたにもかかわらず相手のチームのレフェリーはノーファール判定でした。長男はまったく起き上がれません。そこでようやく試合が止まりました。

その後は全くプレイすることが出来ず,関西遠征を棒に振ることになりました。

この怪我がきっかけで長男は長い期間「疲労骨折」という病名に苦しめられ,県リーグどころかクラブユースさえ出場出来ないという事態になるのでした。

コロナ禍の影響で私は山梨入りをすることが出来なくなっていました。通院はクラブスタッフに任せていました。山梨県内の保護者が酸素カプセルでの治療に引率をしてくれたりもしました。病院に行くたびに医者から「まだ無理です。あと2週間後に経過を診せに来てください。」と言われる日々が3か月もが続きました。中3の4月から7月までの期間はユースへの進路にとっても重要な期間です。長男の心は徐々にやさぐれていきました。

アメージング・アカデミーはウイングス戦に勝てば全国大会に出場出来るというところまで来ました。長男は全国大会までには復帰すると心に誓い,リハビリに専念していました。この試合もベンチからチームを鼓舞し続けていました。しかしチームは惨敗。全国大会出場の願いは叶いませんでした。

怪我の功名と言う言葉があります。確かに長男は怪我をしたことでプレイできなくなりました。試合にも出れませんでした。しかし結果的には3か月も休めたことで身体が想定以上に大きく育ちました。日常的に激しくプレイし,睡眠時間を減らしていると,身体の成長に少なからず悪影響すること長男は自身の身体で体験したのでした。この出来事から休息の大切さを実感した長男はよく寝るようになりました。

 

次回は「志のままに奈良クラブユース加入」です。